7/2…イベント当日
--和泉2--
「本番まであと10分だ!織姫の準備は?」
俺は、左袖側にいる和谷と連絡をすませると、右袖側に待機している出演者とスタッフ(といっても、両袖合わせても、10人しかいない…)みんなを見回す。
有志での劇は、棋院事務局の…とくに、年配の方に好評らしく…それなりに、資金が集まって…衣装なんかは、どこで聞いたかしらないけれど、桑原本因坊が(何故か)家にあるという、着物やら何やらを貸し出してくれた。
(一応…棋士には内緒ってことにしてもらってたんだけどなぁ…)
事務局に相談する時に、初の試み…ということもあって今回のことは他の棋士や記者室の人には内緒ってことにしてもらったんだけど…流石は、本因坊というか…世間で妖怪といわれるだけのことはある…。 とは言え、この事が内密に進んでいることを了解してくれているようで、他の棋士や記者部には今回の事が広まっていないのが有難かった。
(やっぱり、今勢いのある進藤がいるから…特にこの辺はなぁ。)
進藤は目立つ。よくも悪くも…。 それは、院生の頃からだった。
コロコロ変わる表情に、生意気な口の利き方…あまりに、碁について知らないくせに…鼻息だけは荒かった。
(『打倒塔矢!』が口癖だったな…)
今思えば、微笑ましい。 俺だってはじめは、どれだけの実力があるやつなのか…噂に惑わされて牽制してた。だけど、一緒に打つようになってスポンジが水を吸収するみたいに成長してく進藤としのぎを削るのが楽しくて、色んな碁会所を連れまわして…眼を輝かせる進藤が弟のように思えて…
(あの頃は楽しかったなぁ…)
今思えば、随分余裕があったもんだと思う。 俺は…自分の力に自信があったし、進藤に負けるなんて思ってもいなかった…。
(あの頃の俺は…俺自身に負けたんだ…)
自分の力に過信して…自分で勝手にプレッシャーを感じて…自分でつぶれたんだ。
それだって、今思えば懐かしい事だ。 進藤とのプロ試験での一局に負けていなかったらどうだったろうか…と思う。もしかしたら、俺はすんなりプロになれてたかもしれない。
(でも…いつか同じ壁に突き当たってたはずだ…)
自分を信じられない人間に勝利は訪れない。
(俺は負けてらんないな…。これからだ。)
だから、進藤との戦いは俺にとってはかなり特別で…いつだって気の抜けないものだ。
(だけど…だからこそ…)
プロになって、低段でありながらも高段者をあいてに連勝を続ける進藤にはやっかみも多い。
一時、無断で手合いを休んだ…あの事件は、時がたっても未だに進藤のイメージを固定し続けてる。
その上、何故か棋院の実力者たちに可愛がられているから、より一層だ。
今風の風貌に惑わされて真の彼を見ない人たちの心無い噂だったり中傷だったり…そんなものを、聞かせたくない。 (そんなことでつぶれる奴じゃないって分かってても…それでも、そんな煩わしいことからは避けてやりたいよ…)
俺の前で、涙をこぼしたあの進藤を見ていれば…きっと、皆分かるはずなんだ。進藤が、本当はどこまでも碁を愛していて…色々なことを乗り越えてココにいるって事が。
(もっと、皆、お前の碁を見てくれればいいのにな…。)
進藤が打つ手の中から聞こえてくる、進藤の声…進藤そのもの。
といっても、俺だってその全てが分かるわけじゃない。繊細で、難解で…読みが深い進藤の手を本当に理解できるのは…
(きっと…アイツだけ…だよな…)
進藤が、ずっと追いかけてきた人物。
「塔矢…か…」
そういえば今日、急遽、奈瀬の代わりとして出演することになった織姫役の女の子が現れたときは、少しびっくりした。さらりとした黒髪に、真っ直ぐな瞳…まるで、女版塔矢アキラ…のようで。
(奈瀬と同じ高校の同級生…とだけ聞いていたんだけど…塔矢となんか関係があるのかな?)
俺はそんな事を考えながら、ふと時計を見直す。 織姫の出番まで、あと5分。 女の子は支度が掛かるものだとは思うが…間に合わないか…という気持ちにチラリと焦りが走る。
とその時、ハラリ…と舞台の脇に掛かっている幕がめくられる音がして
「お待たせしました…」
…その声の主が入ってくる。
その瞬間、そこにいる男中の息が止まったような…そんな空気が流れた。
それは俺も同じで…。
『ごくり…』
思わず生唾を飲み込んでしまう。
それほどに、彼女は今日のために用意した藍色の中国風の着物が良く似合っていて…本当に織姫のようだった。
「遅くなってしまってごめんなさい」
女の子にしては少し低い気もする声だけど、清楚な彼女の静かな雰囲気ととても合っている。俺は先ほどまで感じてた疑問など忘れて…どうもマジマジと彼女に見入っていたみたいで…
「あの…何か?」
その声でハッとした。 顔が一気に赤くなるのが分かる。 あせって周りを見渡すと、なんだか皆がニヤついてるような気がする…けど、あえて気にしないように咳払いすると、
「え…と、出番までもう直ぐですから…袖に…お願いします。」
それだけ言うのが精一杯。 セリフは全て入ってると、会場に着いたときにそう言っていた。 奈瀬からも、『彼女は、進藤のファンで、私が相手役やるって言ったら劇にすごく興味もっちゃって…台本、ずっと読んでたから大丈夫!!』と、お墨付きだ。
劇が始まるまで、秒読み段階。 お客は、囲碁教室の子供達と棋院の事務の人たちだけ…と少人数。 それでも、こんな事が初めてな俺達には緊張の大舞台だ。
(なんとか…上手くいきますように…)
俺は舞台の成功を祈りつつ、彼女の名前すら知らないことにも気付かないまま、台本を握り締めた。
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