7/2…イベント当日
--行洋1--
目の前の少女が長考に入った為、私は先ほど妻が持ってきたお茶に手を伸ばす。
私は手合いの間は、飲食をしない。
プロになってまもなく…真剣勝負の合間に飲食を取ることで、それまでの緊張感がそがれることを恐れて飲食をとる事をやめて…今までずっとそうしてきた。 それは、息子であるアキラにも受け継がれてしまっているが。
(病で倒れてからは、明子がうるさいから…)
指導碁やプライベートで打つときには、水分は取るようにしている。
だが、いざ手合いになれば妻であれ、言葉を挟める場所ではない。
(私も…夢中になりすぎてしまうから…いけないのだが。)
そんな事を考えて、夢中になって我を忘れる自分に苦笑いをし…、そんな自分に良く似ている息子のことを考えた。
(アキラは…どういうつもりであろうか?)
あのアキラが女の子を連れてきた…といっても、本人はとっくの昔に出かけていて、そっけないものだが…というのには、驚いた。
わが子ながら、浮いた噂一つない子なのだ。
(だが…それはそれで…うなずけていたのだが…)
どうあっても、あの子は私の子だ。 不器用なところは、そのまま私といってもいいほどだ。 私とて、囲碁に夢中で明子との結婚も遅いものだった。 それにあの子には…
(進藤君がいる…)
アキラが、誰よりも…何よりも…優先するとしたら、彼しかないだろうと私は思う。 なにかあったわけではない。
進藤君と出会ってアキラは変わった。
棋士として生きてきたあの子は、人間になれた。 知らず知らずに、私が押し付けてしまった塔矢アキラの息子…と言う名前から、自由になれたのだと思う。
アキラがまだ幼く…小学校に通っていた頃、あの子はプロになることに迷いを感じていたようだった。
私の子…という看板を背負い成るべくしてある道を、誰よりも碁を愛する気持ちを持ちながらも、躊躇していたのだと思う。そんなアキラが、どういうめぐり合わせか…偶々飛び込んできた進藤君と打った。
その日から、アキラは変わった。
眠れる獅子が目覚めたように。
(正直…私もあの子があんな激しさをもっているとは…)
碁を打っているときの攻めることをやめない…その姿勢は、私がよく知っている。
だが、息子であるアキラは言葉少ないおとなしい子であった。
そんなアキラが、周囲の反対を押し切ってプロではなく…学校の囲碁部に所属し周囲を驚かしたものだ。
ただ、進藤君と打つためだけに。
それほどまでに彼に固執するアキラ。アキラの成長の影にはいつだって、進藤君がいる…と私は思う。
(運命…そういったものもあるのだろう)
棋士として、あの子は幸せと思う。
同じ道を行くものを…自分と同じく競えるものを持つものとの出会い…。 (それは、どんな喜びであろうか…)
私にも一度だけ訪れた、その喜び。
私は日々の幸せ…家族や、夫婦の暖かい時間を愛しく思っている。
(だが、それとはまた違った形の喜び…棋士として闘い追い続けるものだけが知る喜びがあるのだ…)
もう…交えることはないかもしれない彼のことを…私は今も想う。
あの、一戦が私を変えた。
今まで培ってきた道を飛び出して、新たにもっと沢山の相手と打ちたいと…そう思った。
その中に彼がいることを願った。
アキラが進藤君で変わったように。
彼を待つ気持ちは…まるで、恋のように切ない。
もう打つことがないかもしれないと分かっているのに、自分と相対せるものは彼しかいないとそう思うから、私は待ち続けてしまう。
(そう…恋のように…一秒も忘れがたいのだ…)
だからといって私が、彼に恋をしているわけではない。
あの、インターネットの中の住人・SAIに。
(だが…アキラは…)
私とアキラが違うのは、アキラは進藤君に…
(恋をしている…)
という事だ。
父親として鈍い私でも、師匠である棋士としてアキラの変化は見逃してはいないつもりだ。 その眼を、日常生活と照らし合わせればおのずと答えがでてくる。
(だが…それも、仕方ないことだ)
初めて興味をもった他者である進藤君。
始まりは何かは分からない。あの子とて自分と同等の相手を見つけた喜び…その事と人を愛する気持ちが別である…という事は分かっているはずだ。例え若くても、あの子は私たちの子なのだから。
(アキラはどんなボーダーラインでも、簡単にこえてしまうだろう…)
礼儀正しく見えるあの子には、碁以外のルールなどあってないに等しいに違いない。
(所詮蛙の子は蛙…)
私の…そして、明子の子なのだ。
だから、余計に今日のこの出来事には、首を傾げてしまう。 少し前のことだ。 日本に帰ってくることの決まっていた私に、電話をかけてきたアキラが、指導碁をつけてほしい院生がいると言ってきた。 指導碁など、弟子以外にはつけないことはアキラとて承知しているだろう。 それなのに、頼んでくるというのには余程の理由…余程の相手なのか…と、私は興味をもった。 私とて親だ。 息子の頼みであれば、少々の無理ならばしてもよい。 だが、理由が気になったのだ。 アキラは、本当にこちらがおかしくなってしまうくらい他者に興味が薄い。 余程親しい人物でも…だ。 あの子が顔色を変えるのは、進藤君のことだけなのだ…しつこいようだが。
見込みのある子なのか…と聞いた。 すると、分からない…と答える。 では、親しいものなのか?と聞けば、それほどでもない…という。
首を傾げながらも、若いものと打つのも何か発見があるだろうと引き受けた。 実際、この院生の少女はまだまだ甘いところがある。 女子にしては、気の強い碁を打つので、これからが楽しみでもあるが。
(だが、アキラが気に留めるほどではない…)
そう思って私が彼女を見ると、ようやく彼女の手が動いた。
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